1枚のカードで、全国の公共交通機関が乗り降りできる「交通系ICカード」。利用できる事業者数は、鉄道以外の交通機関を含め約300社もあり、すべての都道府県で使えます。
ただ、JRや第三セクターをはじめ使えないローカル線が多いのも事実です。地域によっては「路線バスでは使えるのに鉄道は使えない」ところも少なくありません。バスでは導入が進む一方で、ローカル線の鉄道ではなぜ導入が進まないのでしょうか。事業者からみた導入判断の経緯や、交通系ICカードの将来も考えてみます。
交通系ICカードの導入状況
交通系ICカードは、JR東日本が2001年11月に「Suica(スイカ)」を発売したのを皮切りに、全国各地でさまざまな種類が登場しています。
このうち、Suicaなど10種類の交通系ICカード(いわゆる「10カード」)は、2013年3月より全国相互利用サービスを開始。1枚のカードで利用できるエリアは、拡大を続けています。一方で、特定の交通機関やエリアでしか使えない片利用のカードも登場。これを「地域独自カード(地域連携ICカード)」といい、地方都市を中心に普及しています。
これらをあわせて、交通系ICカードが利用できる事業者数は、2024年12月現在で336社。鉄道で使えない県は、徳島県のみです。なお徳島県では、空港連絡バスなど一部の路線バスで利用でき、すべての都道府県で交通系ICカードが使えるといえるでしょう。
■全国相互利用可能な交通系ICカード(10カード)の一覧
- Suica(JR東日本)
- ICOCA(JR西日本)
- TOICA(JR東海)
- Kitaca(JR北海道)
- SUGOCA(JR九州)
- PASMO(パスモ)
- PiTaPa(スルッとKANSAI)
- manaca(名古屋交通開発機構)
- nimoca(西日本鉄道)
- はやかけん(福岡市交通局)
※このほか、地域独自カード・地域連携ICカードを含めると、60種類以上の交通系ICカードがあります。
路線バスは使えるのに鉄道では使えない地域がある理由
交通系ICカードが全国に広がったとはいえ、鉄道の場合は幹線などの一部エリアに限られ、ローカル線で使えるところは少数です。普及率の高い首都圏でも、JR久留里線など一部路線ではいまだに利用できません。一方でバスは、使える路線が増えています。久留里線と並走する日東交通バスの路線では、交通系ICカードが利用できます。
このように、路線バスでは使えるのに鉄道は使えない地域も、全国各地でみられます。ローカル線では、なぜ交通系ICカードの導入が遅れているのでしょうか。
「導入コストや管理コストが高い」というのも、理由のひとつです。ただ、コストだけが理由なら、経営規模の小さいバス事業者で導入が進む理由にはなりません。コスト以外に、もうひとつ大きな理由があるのです。その理由は、交通系ICカードが「エリアを限定したサービスだから」です。
この理由を説明するうえで、交通系ICカードのしくみを知っておく必要があります。
交通系ICカードには、文字通り「ICチップ」が搭載されています。このICチップは、自動改札機などから発信される電波を感知すると電力が供給され、ICカードが作動するしくみになっています。ICカードが作動すると、改札から入場する際には乗車駅などの情報が書き込まれ、下車駅では運賃計算処理をして残額から引き落とすといった通信が、自動改札機とのあいだでおこなわれるのです。
下車駅での運賃計算処理には、さまざまなパターンがあります。たとえば、乗車駅からの運賃を差し引くパターンもあれば、定期の乗り越し精算をするケースもあるでしょう。首都圏のように相互乗り入れが多い地域だと、他社路線の運賃や定期などの情報も、機器やシステムにインプットしておかなければなりません。
しかも自動改札機では、こうした処理に短時間で対応することが求められます。ちなみに、一般的な自動改札機で求められる処理時間は、0.15秒以内とされます(コンビニなどに設置された廉価版の端末は、処理に1~2秒かかることもあります)。
わずか0.15秒で正確に処理するには、インプットするパターンをできる限り簡略化する必要があります。そこで、「エリアを限定することによりパターンを少なくする」という方法を採用したのが、現状の交通系ICカードのシステムなのです。
バスの場合、基本的に一社・一路線ごとに清算するため、運賃計算処理のパターンは少なく、導入しやすいシステムといえます。均一運賃制度を採用している地域なら1パターンしかありませんし、対キロ区間制の路線でも数十から数百パターンでしょう。
これに対して鉄道の場合は、改札を通ることなく複数の路線や他社線に乗り入れることもあるため、プログラムが複雑になります。仮にJR全線で使えるシステムを作るとなれば、パターンは数千万から数億にもなり、機器やシステムの処理能力を超えてしまいます。こうした理由から、交通系ICカードはエリアを限定したサービスにする必要があったのです。
交通系ICカードの「エリアまたぎ」を解消する検討会を実施したが…
ただ、エリアを限定すると1枚のカードで移動できない区間も出てきます。たとえば、東海道本線の小田原(Suicaエリア)から沼津(TOICAエリア)に行く場合、交通系ICカードのエリアが異なるため、下車駅では現金で精算しなければなりません。
こうした手間が発生しないように、「エリアまたぎ」ができるしくみを検討した国の組織がありました。
2015年に設置された「交通系ICカードの普及・利便性拡大に向けた検討会」では、交通事業者や学識経験者を集め、エリアまたぎの課題を解消する方法などが議論されています。この検討会は5回実施。最後の検討会(2015年7月)でまとめられた報告書には、エリアまたぎの実現には次の課題をクリアすることを求めています。
- 全国相互利用ができる10カードでは、双方を読み取るための機器の設置が必要
- 地域独自カード(片利用のカード)では、10カード事業者に伝達するためのシステムを開発・導入することが必要
全国に数多ある交通系ICカードのしくみを統一するには、それなりの「コスト」と「事業者間の調整」が必要です。コストの点では「機器の設置やソフトウェア開発などのコストを、誰が出すのか?」という問題が出てきます。また、事業者間の調整では「運用ルールなどを全国統一できるのか?」といった課題がみえてきたのです。とくにコストに関しては、赤字路線の多い交通事業者で構成される地域独自カードの事業者にとって、頭痛の種でした。
その後、2017年に発足した「片利用共通接続システムの構築に向けた検討会」では、10カードの片利用システムを共同利用することで、地域独自カード事業者の負担を抑える方法が検討されます。10カードのシステムをうまく活用することで、システム開発コストを抑えられないかと考えたわけです。
しかし、10カードのシステムに接続するための新たなシステムの構築は避けられず、コストの課題を解消できないと検討会は判断。「全国単一のシステム構築は困難」という結論を、2018年に報告したのです。
第三セクター鉄道で交通系ICカードの導入が進まない理由
上記の理由から、現状の交通系ICカードは「エリアを限定しなければ運営できないシステム」であることがわかります。であれば、JRのローカル線より第三セクターや中小私鉄のほうが、「技術的には導入しやすい」と考えられます。実際に、交通系ICカードを利用できる中小私鉄は多いです。
ただ、第三セクター鉄道のローカル線で利用できる路線は限定的です。その理由は、「利用者の少ない線区で導入しても、メリットを享受しにくいから」でしょう。これは、JRや私鉄の路線でも同じことがいえます。
鉄道事業者からみた交通系ICカードを導入するメリットには、以下の点があります。
- 多様かつ高度なサービスの提供
- 運用負荷の軽減
- データの活用による生産性の向上
「多様かつ高度なサービスの提供」とは、通常のきっぷも定期券も敬老パスも1枚のカードに搭載でき、利用者に対して高水準なサービスを提供できることです。そのカードに、必要な金額をチャージするのは利用者自身ですから、駅員の発券業務を減らせます。また、自動改札機の導入により定期券などを確認する作業も減らせ、人的負担の軽減や人員配置の最適化も図れます。
さらに、交通系ICカードの利用により得られたデータは、輸送サービスの改善などに活用できます。うまく活用すれば、運賃収入や利用者数の増加につなげることも可能でしょう。
こうしたメリットは利用者数の多い線区では享受しやすいものの、少ない線区ではコストに見合うシステムとは言いづらく、導入判断がしづらいのです。とくに(2)は、ローカル線は無人駅がほとんどですから、交通系ICカードのシステムを導入したからといって、これ以上の経費削減ができるわけでもありません。むしろ、システムの運用管理者などの人件費がかかります。
バスのように車載端末器を設置すれば、運転士の負担軽減につながるかもしれません。ただ、維持管理費と比べて「メリットが少ない」と判断すれば、導入を見送ることになるわけです。
鉄道を維持するには、多額のコストが必要です。交通系ICカードのためにコストをかけるくらいなら、運行経費の赤字補てんや既存の鉄道施設の改修・更新に充てたほうが有意義と判断する事業者や自治体が多いのが実情ではないでしょうか。
脱・交通系ICカードは進むのか?
すでに導入している事業者のなかには、上述のメリットよりデメリットのほうが大きいと判断し、相互利用できる10カードとの連携から離脱するところも現れてきました。そのひとつが、熊本県の鉄道バス事業者です。
熊本県では、熊本電鉄をはじめ5つの路線バス事業者で地域独自カード(くまモンのICカード)を導入しています。このシステムは、Suicaなどの相互利用できる10カードとも連携していました。
しかし、2024年11月16日に相互利用できるシステムを廃止に。地域独自カードは引き続き使えますが、10カードは利用できなくなったのです。廃止にした理由について、熊本県などは「機器交換などの更新費用が高い」ことを挙げています。
現行システムを継続する場合、車載端末などの更新費用は12億1,000万円。経営の苦しい事業者が、運賃決済システムだけのために出せる額ではありません。それに、システムを導入しても利用者の減少に歯止めがかからない状況が続いていたのです。
そこで県と熊本市、バス事業者は「共同経営推進室」を設置。新たなシステム導入の検討を始めます。その結果、クレジットカードでタッチ決済する新システムへの移行を決定。このシステムなら更新費用を6億7,400万円に抑えられると、共同経営推進室は伝えています。
新システムへの移行にともない、相互利用できる10カードは使えなくなりました。JR九州の駅からバスなどに乗り継いでいた人は、SUGOCAだけで移動できなくなったのです。ただ、地域独自カードのみに適用されるサービスが、クレジットカードのタッチ決済でも適用されます。たとえば、バス事業者間の乗継割引や高齢者割引といったサービスは、SUGOCAでは対応できませんでしたが、クレジットカードのタッチ決済は利用できます。相互利用できることよりも、柔軟なサービスに対応できる利便性を熊本のバス事業者などは選んだのです。
なお、クレジットカードのタッチ決済は、JR九州でも実証実験を始めています。2025年1月現在で熊本県内の駅では未導入ですが、いずれ利用できるようになればSUGOCAと同じ利便性が得られるのではないでしょうか。
ライバル登場に「10カード」は巻き返せるか?
熊本のように、コストを理由に10カードのシステムから離脱する交通事業者は、今後も現れると予測されます。それだけシステムの維持費が高額であり、利用者の減少に歯止めがかからない事業者にとって重い負担になるからです。
少し専門的な話になりますが、現状の交通系ICカードのシステムは、「ローカル処理方式」を採用しているところが多いです。この方式は、改札機の端末ごとに計算処理をするため、対応エリアが増えたり運賃改定があったりすると、すべての端末でプログラムの書き換え作業が必要になります。こうした作業コストも、維持費が高くなる一因になっているようです。
こうした課題があるなかで、10カードの事業者でもコスト削減につながる取り組みを進めています。
一例として、Suicaを運営するJR東日本では、運賃計算などの処理を一元管理する「センターサーバー方式」の改札システムを、2023年度に導入しました。これにより、端末ごとのプログラム更新をする必要がなくなり維持費の削減が期待できるほか、複雑な計算処理でも処理スピードが向上し、JR東日本管内における「エリアまたぎ」の問題も解消するとしています。
現状のSuicaでは、首都圏・仙台・新潟などSuicaエリアがわかれており、エリアをまたぐ利用はできません。これが、センターサーバー方式になることで、たとえば首都圏から仙台までSuicaで移動するといったことも可能になります。JR東日本は、2026年度までにセンターサーバー方式の導入を完了させるとしています。
■ローカル処理方式とセンターサーバー方式の違い
さらにJR東日本は2024年12月10日のプレスリリースで、タッチせずに改札を通過できる「ウォークスルー改札」や、位置情報などを活用してJR東日本全線でSuicaが利用できるしくみをつくると発表(モバイルSuicaアプリの定期券を持っている人が対象)。こうしたサービスを他の交通事業者にも提供できるように共通プラットフォームを構築することで、交通系ICカードのシステム導入や更新時におけるコストを抑えられるとしています。
もっとも、ウォークスルー改札などの実現は「今後10年以内」としており、いつ実現するかはわかりません。交通系ICカードのシステムは約7年おきに更新を迎えるため、実現する前に更新を迎える事業者が10カードのシステムから離脱する可能性もあるでしょう。
交通系ICカードで巨大なビジネスを構築した10カードの事業者にとって、「ローカル線の利用者をどれだけ取り込めるか」も、生き残りをかけた経営戦略になりそうです。
参考URL
交通系ICカードの普及・利便性拡大に向けた取組(国土交通省)
https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport_policy/sosei_transport_policy_tk1_000011.html
実は超小型&高性能のコンピューターだった!? 身近な存在だけれど、意外と知らないICカードの仕組み(DNP)
https://www.dnp.co.jp/media/detail/10160887_1563.html
交通系ICカードの普及・利便性拡大に向けた検討会 とりまとめ(国土交通省)
https://www.mlit.go.jp/common/001097000.pdf
「片利用共通接続システム」の構築に関する方向性(国土交通省)
https://www.mlit.go.jp/common/001178391.pdf
交通分野におけるデータ連携の高度化に向けた検討会 中間とりまとめ(国土交通省)
https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/transport/content/001482607.pdf
交通系ICカード導入による事業者メリット(国土交通省)
https://www.mlit.go.jp/common/001095606.pdf
クレジットカード等のタッチ決済機器導入について(共同経営推進室)
https://jmpo.kumamoto-toshibus.co.jp/wp-jmpo/wp-content/uploads/2024/10/9%E6%9C%8830%E6%97%A5%E5%85%AC%E8%A1%A8%E8%B3%87%E6%96%99.pdf
クレジットカード等でご利用の際はタッチ決済で乗車OK(JR九州)
https://www.jrkyushu.co.jp/railway/touch/
新しいSuica改札システムの導入開始について(JR東日本)
https://www.jreast.co.jp/press/2023/20230404_ho02.pdf
Suica の当たり前を超えます(JR東日本)
https://www.jreast.co.jp/press/2024/20241210_ho03.pdf