近江鉄道は、本線、多賀線、八日市線の3路線を有す私鉄です。開業は1898年と歴史のある鉄道事業者で、本線には120年以上使われ続ける橋梁やトンネルもあります。
近江鉄道は、利用者数の減少などにより廃止になる可能性がありました。しかし、沿線自治体との協議の結果、公有民営方式で存続させることが決定しています。沿線自治体は、なぜ近江鉄道の存続を決めたのでしょうか。協議会の経緯を、議事録から読み解いていきましょう。
近江鉄道の線区データ
協議対象の区間 | 本線 米原~貴生川(47.7km) 多賀線 高宮~多賀大社前(2.5km) 八日市線 八日市~近江八幡(9.3km) |
輸送密度(1987年→2019年) | 1,693→1,786(本線・多賀線・八日市線) |
増減率 | 5% |
赤字額(2019年) | 5億1万円 |
※赤字額は、コロナ禍前の2019年のデータを使用しています。
協議会参加団体
東近江市、彦根市、近江八幡市、甲賀市、米原市、日野町、愛荘町、豊郷町、甲良町、多賀町、滋賀県、近江鉄道ほか
近江鉄道をめぐる協議会設置までの経緯
近江鉄道の利用者数のピークは、1967年の年間1,126万人です。以降、モータリゼーションの進展などの影響を受け、利用者数は右肩下がりに。2002年には369万人にまで減少します。
その後、新駅の設置や企画乗車券の販売などの利用促進策により利用者数は持ち直しますが、それでもピーク時の半分以下。沿線地域の将来の過疎化・少子化を鑑みると、これ以上の増加は見込めない状況でした。
出典:滋賀県「(仮称)近江鉄道沿線地域公共交通再生協議会 次第」
また、経営状態は1994年から赤字が継続しています。近江鉄道は、ワンマン運転や無人駅の拡大などコスト削減の取り組みに努めるものの、赤字額は増える一方でした。なお、赤字の一因には鉄道施設の老朽化にともなう修繕費の増加もあります。
2016年6月、近江鉄道は沿線自治体などに対し、「民間企業の経営努力による事業継続は困難」と、協議会の設置を申し入れます。これに対して沿線自治体は、2017年から近江鉄道の現状と課題を共有する勉強会を実施。1年以上議論したうえで、2018年7月に部・課長クラスの検討会を設置します。
さらに、同年12月には「近江鉄道線活性化再生協議会」が設立されます。この協議会は地域公共交通活性化再生法にもとづく法定協議会への移行に向けた準備段階という役割で、後述する「アンケート調査の実施」「クロスセクター効果の検証」「代替交通手段の検証」なども、この協議会から始まっています。
そして2019年11月、「近江鉄道沿線地域公共交通再生協議会」を設立。第1回の協議会が開催されます。参加メンバーは、沿線自治体と滋賀県、近江鉄道にくわえ、JR西日本、信楽高原鐵道、沿線の教育委員会やPTA、大学教授など幅広く集めて協議がスタートします。
なお、協議会の会長は三日月滋賀県知事が就任。30名以上になる参加メンバーの意見をまとめ、協議会をリードしていくことになります。
第2回協議会で近江鉄道の「存続」で全会一致
第2回の協議会は、2020年3月に開催されます。ここで、沿線住民に対して実施したアンケート調査の結果報告と、クロスセクター効果の検証結果、そして代替交通手段の検証結果について提示されることになりました。
アンケート調査の結果報告
近江鉄道の特徴のひとつが、「通勤定期客」「通学定期客」「買い物や観光などの定期外客」が、ほぼ3分の1ずつで、幅広い人々に利用されていることです。このうち通学定期客は鉄道以外の代替手段が限られ、「近江鉄道を使えなくなると通学できなくなる」という高校生が約3割もいることが、アンケートで判明しました。
もっとも、家族がマイカーで送迎したり代替バスを運行したりすれば、通学も可能でしょう。ただ、みんながマイカーやバスにシフトすると、家族の負担増や道路渋滞の発生など懸念事項もあります。このことから、近江鉄道は社会インフラとして大きな役割を果たしていると考えられます。
クロスセクター効果の検証結果
クロスセクター効果とは、公共交通を「廃止にした場合に想定される影響に対する行政負担」と、「存続させるために必要な行政負担」を比べて、公共交通の価値を確認することです。
たとえば、鉄道を廃止する際には、新たなバスなどの車両を購入したり渋滞を緩和するために道路整備が必要だったりと、さまざまな経費がかかります。これらの経費より鉄道事業者への支援額が高ければ鉄道を廃止にしたほうが合理的ですし、安ければ鉄道を存続させたほうがよいという結果になります。
近江鉄道の検証では、医療や教育、建設(道路整備)などの分野別に試算し、トータルの費用を算出しています。その結果、廃止にしたときの行政負担は19.1億円以上という結果に。近江鉄道への支援額(6.7億円)を、大きく上回り、「鉄道を残したほうが行政負担は少なく合理的」という結果が報告されています。
分野 | 鉄道廃止による行財政負担項目 | 施策実施費用(万円) |
---|---|---|
医療 | 病院送迎貸切バスの運行 | 1,518 |
通院のためのタクシー券配布 | 8,379 | |
医師による往診 | 11,175 | |
医療費の増加 | 13,056 | |
商業 | 買物バスの運行 | 2,262 |
買物のためのタクシー券配布 | 6,278 | |
教育 | 貸切スクールバスの運行 | 17,350 |
通学のためのタクシー券配布 | 358,316 | |
観光 | 観光地送迎貸切バスの運行 | 2,261 |
観光タクシーの運行 | 694 | |
福祉 | 通院・買物・観光以外でのタクシー券配布 | 21,391 |
財政 | 土地の価値低下等による税収減少 | 928 |
建設 | 道路混雑に対応した道路整備 | 133,860 |
分野別代替費用の合計 | 191,059 |
参考:滋賀県「第2回 近江鉄道沿線地域公共交通再生協議会 次第」のデータをもとに筆者作成
代替交通手段の検証結果
近江鉄道を廃止にして他の交通モードにシフトすると、「初期投資やランニングコストがいくら必要か」という検証も実施しています。協議会では、「バス」「BRT」「LRT」の3つの転換ケースで試算。その結果は、以下の通りです。
・バス:ランニングコストは鉄道の約半分になるが、初期投資として30億円必要。
・BRT:初期投資が120億円必要で、ランニングコストは鉄道より増える。
・LRT:初期投資が112億円以上、ランニングコストはバスより増える。
いずれの交通モードも、「鉄道を存続させるより優位性が見当たらない」と、協議会では判断しています。
なお、代替交通手段を比較する際には金額だけでなく、それぞれの交通モードのメリット・デメリットを検証することも大切です。近江鉄道の協議会でも、バスやBRTなどのメリット・デメリットを比較検討し、総合的に判断した結果「鉄道の存続」で全会一致したのです。
鉄道の「存続ありき」で議論しないことも重要
協議会では、「アンケート調査」「クロスセクター効果の検証」「代替交通手段の検証」という3つの視点から、近江鉄道の価値を再確認しました。これが、参加メンバーに近江鉄道の存続を決めさせる要因になったと考えられます。
ただ、協議会のメンバーは「鉄道の存続が前提ではない」という考えを認識したうえで、近江鉄道の存続を決めています。後に、三日月滋賀県知事は以下の発言をしており、必ずしも鉄道を残すことがゴールではなかったことがうかがえるのです。
私どもも近江鉄道のことで言えば、鉄道ありきで議論したわけではありません。他のモードとの比較検討をした上で、同じ機能を維持するとすれば、財源がやはり多くかかってしまうということとか、時間がその間、ラグが出てしまうということなども検討した上で、鉄道路線として全線残すことを考えました。
出典:国土交通省「第2回 鉄道事業者と地域の協働による地域モビリティの刷新に関する検討会議事録」
ここで重要なのが、「鉄道の価値を客観的に分析すること」の必要性です。
昨今の鉄道事業者は、沿線自治体に協議を申し入れる際に「廃止が前提ではない」というフレーズをよく使います。一方で、自治体は「鉄道の存続が前提」という態度で協議に臨む首長が多いようです。
しかし、利用者が極端に少ない赤字ローカル線を存続させるには、財政支出は避けられません。お金の話になると、どうしても感情論が先行してしまいますが、関係する自治体が多い協議会ほど冷静な分析が求められるのです。
「本当に鉄道を残したほうがメリットは大きいのか」を客観的にリサーチし、判断材料となる数値を多く集めることで、感情論を抑え込んだ建設的な議論が進めやすくなります。自治体間の「温度差」を小さくするうえでも、有効でしょう。
ただし、「数値だけ」に振り回されるのも問題です。近江鉄道の協議会でも、鉄道や地域の文化も含めるなど、定性的な判断も必要といった趣旨の意見が出されています。
目に見えない価値というのは、カルチャーとして受け継ぐものととらえていく。根っこの部分として育てていく部分とか、地域の文化という部分が非常に大事だなと。
出典:滋賀県「第2回近江鉄道沿線地域公共交通再生協議会」議事録
確かに数字があるんですけれども、この数字が踊ることによってそういう部分がなくなるのは、ちょっと気がかりだなと思いますね。
近江鉄道の利用促進を目的とした施策の検討
第3回(2020年6月)は、新型コロナウイルスの影響による利用者の減少や収益の悪化の話がメインとなり、協議会に暗雲が立ち込めます。外出制限がされるなか、協議会では利用促進を目的とした施策や社会実験(ワンコインキャンペーン)の内容を議論します。
また、協議会のメンバーによる「フィールドワーク」についても検討されます。このフィールドワークでは、近江鉄道の全線全駅を視察しながら関係者の話をヒアリングするというもの。2020年7月に、2日間にわたって実施されました。
フィールドワークを実施することで、改めて近江鉄道の課題を認識でき、対策や施策を検討しやすくなります。そこで、第4回(2020年8月)の協議会では、フィールドワークの結果をもとに、自治体ごとの優先施策を提示。「駅前広場の整備」「駅のバリアフリー化」「バスの接続見直し」など、地域公共交通全体の課題解決も含め話し合われます。
第5回(2020年12月)では、前々回の協議で決めた「ワンコインキャンペーン」の結果が報告されます。このキャンペーンは、「大人500円、子ども100円のワンコインで、近江鉄道が全線乗り放題になる」という社会実験です。週末限定で約2カ月実施された企画でしたが、売上枚数は24,533枚、利用者数は昨年同時期と比べて1.9倍も増加しました。
このキャンペーンから、「普段は近江鉄道を利用しない潜在層が多くいること」、また「その潜在層へのアプローチが利用者増加のカギになる」ことが確認されます。ちなみに、ワンコインキャンペーンは2021年も実施(売上枚数は25,100枚)。さらに2022年には「全線無料デイ」として1日限り無料運行とし、普段の定期外利用者数の12倍にあたる約38,000人が利用しました。
公有民営方式への移行が決定
協議会では、近江鉄道の存続を全会一致で決めています。ただ、運営形態をどうするかは決まっていません。第5回の協議では、その形態について案が出され「公有民営方式がよい」という結論に至っています。
公有民営方式を選んだ理由として、「路線長が約60kmと長く、鉄道施設の老朽化が進んでいること」が重視されたようです。公有民営方式であれば、鉄道施設を自治体が保有・管理するため、近江鉄道の負担を軽減できます。
ただ、いきなり移行するのではなく、その前段として2021~2023年度までの3年間を「運営改善期間」とし、利用者の増加や収支改善を図る期間を設けています。その後、2024年度から公有民営方式に移行することになったのです。
運営改善期間を経て公有民営方式に移行する案は、第6回(2021年3月)の協議会で、すべての沿線自治体が合意します。これで、近江鉄道は2033年まで存続することが確定したのです。
近江鉄道のこれまでの取り組み
協議会が中心となり実施した、利用促進の取り組み例を紹介します。
- ワンコインキャンペーン(2年連続で約2カ月実施)
- 全線無料デイ(1日限定)
- 割引乗車券・企画乗車券の導入(デニムコラボ1日乗車券など)
- 地域のPR列車の運行(「びわ湖のひな人形めぐり」など)
- イベント列車の運行(ビア電、ジャズトレインなど)
- キャッシュレス決済の導入・検討
- 利用促進パンフレットの制作(地元高校との共同制作)
- 各種イベントの実施・展開
- ふるさと納税制度の活用
- サイクルトレインを活用した沿線スタンプラリーの実施
…など
企画乗車券として、沿線のデニムブランドと協働したパッチ素材の1日乗車券を販売しています。また、沿線自治体などが実施する「びわ湖のひな人形めぐり」のPRを、観光協会と連携して列車内でのPR展開も実施しました。いずれも、沿線の企業や団体、住民と連携した施策であることもポイントのひとつです。
キャッシュレス決済については、スマートフォンアプリで乗車券を購入・決済できるデジタル乗車券「RYDE PASS」を、地元企業と連携して開発。スマホの画面を見せるだけで近江鉄道が乗降できる、便利なチケットです。
ただ、JRなど他の交通機関の利用者からみると「ICOCA」のほうが利便性が高いと考えられます。近江鉄道バスではすでにICOCAを導入していますが、電車については未対応です。協議会では、ICOCAのほか「Visaタッチ」など他の方式を含めて検討していましたが、2025年を目途にICOCAを導入する方針を決めています。
このほか、さまざまな施策を同時進行している近江鉄道。自治体の支援を受けながら経営に余力をつくり、サービスを向上させて利用者の増加につながることを期待したいところです。
※沿線自治体と協議を進めている路線は、ほかにも複数あります。各路線の協議の進捗状況は、以下のページよりご覧いただけます。
参考URL
鉄道統計年報
https://www.mlit.go.jp/tetudo/tetudo_tk2_000053.html
近江鉄道線のあり方検討(滋賀県)
https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/kendoseibi/koutsu/305179.html
近江鉄道線存続に向けた沿線自治体との協議について(国土交通省)
https://www.mlit.go.jp/tetudo/content/001469112.pdf
(仮称)近江鉄道沿線地域公共交通再生協議会 次第(滋賀県)
https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5142394.pdf
近江鉄道線の活性化再生を中心とする滋賀県における地域公共交通の取組について(国道交通省)
https://www.mlit.go.jp/tetudo/content/001466860.pdf