2022年9月23日、西九州新幹線の一部区間の開業にともない、長崎本線の江北~諫早間は上下分離方式に移行しました。列車の運行はJR九州が引き続き担いますが、駅や線路などの鉄道施設は佐賀県と長崎県が出資する「佐賀・長崎鉄道管理センター」が管理しています。
整備新幹線の並行在来線は、第三セクターの鉄道事業者に移行するのが通例です。江北~諫早間は、なぜ上下分離方式になったのでしょうか。その背景には、並行在来線の経営分離という制度に疑問を呈し、17年にわたって闘い続けた「JR長崎本線存続期成会」の活躍がありました。
JR長崎本線の線区データ
協議対象の区間 | JR長崎本線 江北~諫早(60.8km) |
輸送密度(1987年→2023年) | 9,108→908 |
増減率 | -90% |
協議会参加団体
鹿島市、太良町、塩田町、嬉野町、有明町、白石町、江北町、福富町、諫早市、高来町、小長井町、森山町、飯盛町
※1994年時点の参加自治体を記載しています。
JR長崎本線存続期成会の設置までの経緯
1990年12月24日、政府・与党は整備新幹線における並行在来線の扱いについて「着工認可前に、JRに経営分離するかを確認する」という申し合わせで合意します。これは当時、「新幹線ができると並行在来線の利用者が減り経営が苦しくなる」と反発していたJR各社の意見を受けての措置でした。
1991年9月17日、当時の佐賀県知事が九州新幹線長崎ルート(西九州新幹線)のルート案を提示。博多~武雄温泉間は在来線を活用するなど、並行在来線を極力設けない案で、新幹線の誘致を進めます。この案をベースに、自民党長崎県連の新幹線問題協議会は、前年の政府・与党の「申し合わせ」も考慮したうえで、新幹線開業時の収支試算をJR九州に求めます。
収支試算の結果は1992年2月24日に提出されますが、そこには肥前山口(現・江北)~諫早間の試算が除外されていました。つまり、JR九州は「肥前山口~諫早間は並行在来線として経営分離したい」という考えを示したことになります。 もちろん、この段階では正式決定ではありませんが、試算が除外された沿線の自治体には「経営分離されるのではないか」という憶測が広がり始めます。
当時は「並行在来線」という概念が、まだ定着していなかった時代です。また、国鉄分割民営化から間もないころでしたから、「JRから切り離される」ことは「地方の切り捨てにつながる」と解釈する自治体も少なくありませんでした。
そして1992年8月4日、佐賀県の1市7町の沿線自治体が「JR長崎本線存続期成会」を設立。肥前山口~諫早間の経営分離に反対します。一方、長崎県でも1993年7月20日に同名の期成会が発足します。ただ、長崎県側は一部の町議会議員などによる小規模な組織でした。この段階で、整備新幹線に対する両県の考え方に、大きな違いがあったことがわかります。
なお、JR九州が並行在来線の経営分離の意向を正式に表明したのは、それから4年近く先の1996年4月18日のことです。
第三セクター案に同意する長崎県と反対する佐賀県
1996年9月9日、佐賀県、長崎県、JR九州による三者協議会が発足します。この協議会は、並行在来線問題について具体的に検討することを目的とした場です。第2回(同年11月28日)の三者協議会では、経営分離区間が正式に決定します。その区間は、沿線自治体の予想通り、肥前山口~諫早間でした。
12月4日に開催した第3回の協議会では、「肥前山口~諫早間の鉄道輸送の今後のあり方について」という提案がまとめられます。そこには、経営分離区間は「第三セクターで運行する」考えが示されました。これをもとに佐賀・長崎の両県は、それぞれのJR長崎本線存続期成会に対して、第三セクター案の容認を促します。
このうち長崎県側の期成会は「条件付き」で同意。期成会は、財政負担や運行に関する課題など7項目の要望書を県に提出します。この要望が受け入れられた段階で、期成会は容認するとしたのです。翌1997年2月19日、長崎県から回答を得ますが、一部の項目については同意できないとして議論が硬直します。
その後、1999年8月24日に長崎県と期成会が勉強会を発足。沿線自治体が同意できなかった要望に対しての議論が再開します。そして2000年3月30日、「三セク移行後も運行本数を確保する」「町に財政負担をかけない」「県が30億円の基金を創出する」など長崎県が回答したのを受け、並行在来線の第三セクター案を容認。この翌日に、長崎県側の期成会は解散します。
一方、佐賀県側の期成会は1996年12月18日に、第三セクター案を「検討するに値しない」と、経営分離に強く反対します。この後、佐賀県と期成会との話し合いは8年間も中断することになるのです。
JR九州が佐賀県側の上下分離を提案
佐賀県とJR長崎本線存続期成会との協議が進まないなか、国と長崎県が動き始めます。2004年2月18日、自民党の整備新幹線建設促進特別委員会は、両県知事に対して意見聴取を実施。同年3月25日には、長崎県の知事と県議会議長が佐賀県を訪問し、並行在来線問題の解決に向けて話し合うよう要望します。
こうして2004年3月29日、佐賀県知事が鹿島市長を訪問。8年間中断していた協議が再開されることになったのです。しかし、期成会は経営分離反対の立場を変えず、両者の意見は平行線をたどります。
出口の見えない状況に頭を抱えた佐賀県は、同年10月27日にJR九州に相談。「第三セクターの枠組みを見直せないか」と要請します。8年前の三者協議会で決定した内容を、白紙に戻そうとしたのです。通常であれば、JR九州は拒否するでしょう。
ところが、JR九州もなんとか事態を打開しようと「譲歩案」を用意していました。その案が、「上下分離方式への移行」だったのです。2004年11月5日、JR九州は以下の内容を提示します。
- 肥前山口~諌早間の鉄道設備は、佐賀・長崎両県に無償譲渡する。
- 佐賀県側(肥前山口~肥前鹿島)の運行は、引き続きJR九州が担う。運行に関する営業損失は、年間1億円まではJR九州が負担する。
- 博多~肥前鹿島間で、特急を1日10本程度走らせる。
- 長崎県側(肥前鹿島~諌早間)の第三セクター線区に、臨時列車やイベント列車の乗り入れを実現させる。
この段階では、長崎県側は第三セクター鉄道が設立される予定でしたから、佐賀県側だけ上下分離するという案になっています。
佐賀県の沿線自治体にとって、かなり譲歩された案でしたが、期成会は地元負担が大きいことや特急列車が大幅に減便されることなどを理由に「了承しない」と回答します。それでもJR九州は、「営業損失は長崎県・佐賀県の両県で話し合い、負担割合を決める」「ローカル列車の本数は現行程度に運行する」など、追加案で迫ります。
この追加案が示された翌日の2004年12月9日、佐賀県知事は「並行在来線の経営分離はやむを得ない」と、県としては経営分離の同意を表明します。この表明を受けて、国は財源確保に動き始めますが、沿線のすべての自治体が同意しなければ工事は着工できません。このため、予算を確保しながら執行できないという、国としても異例の対応をせざるを得なかったのです。
JR長崎本線存続期成会から脱会する自治体が続出
2005年に入り、沿線自治体の期成会に大きな変化が現れます。佐賀県が経営分離を容認したことを受け、賛成に「鞍替え」する自治体が現れ始めたのです。さらに、平成の大合併により、反対だった自治体が賛成の自治体に合併され、鞍替えするようになります。
沿線自治体の足並みがそろわなくなったことから、期成会は2005年3月30日に臨時総会を開催。いったん解散して、同名の期成会を再設立します。これにより、当初は1市7町で組織された佐賀県の期成会は、鹿島市、江北町、太良町の1市2町にまで減ってしまったのです。
■2005年3月末時点での沿線自治体の意向
【経営分離に反対】鹿島市、太良町、江北町
【経営分離を容認】嬉野町(1996年に期成会から脱会)、塩田町(嬉野町との合併を受け脱会)、白石町(有明町と福富町は2005年1月に白石町と合併、同年3月に期成会から脱会)
2005年6月3日、新生した期成会と佐賀県が改めて協議を再開。同年8月末までに、結論を出すことで合意します。そして8月30日、期成会が出した答えは「経営分離に同意しない」でした。この回答を受けて、佐賀県との協議は再び中断します。
「鹿島市」と「江北町長」だけの期成会に
ただ、反対派の1市2町のあいだにも「温度差」が生じてきます。2005年11月30日、江北町議会は期成会から脱退する決議を行い、賛成多数で可決。町議会は脱会し、町長だけが期成会に残るという、ねじれ現象が生じます。
江北町では、同月に住民アンケートを実施。整備新幹線について「必要ない(31.9%)」「どちらかといえば必要ない(27.1%)」をあわせると約6割になり、住民も経営分離に反対していました。それなのに町議会では、「住民の意向を重く受け止める」としながらも、経営分離に賛成したのです。
町議会が鞍替えした理由は、やはり「江北町に新幹線の駅ができるから」でしょう。いまは反対派が多くても、将来を見据えれば「新幹線ができたほうがメリットは大きい」と町議会は判断したのです(その後、西九州新幹線に導入予定であったFGTの開発中止を受け、江北町に新幹線駅が設置されるかは、2023年7月現在では未定です)。
なお、江北町は2006年3月17日に経営分離に同意する文書を佐賀県に提出しますが、江北町長は一人だけで期成会に残る表明をします。
江北町に次いで太良町も、2006年2月28日に期成会から脱退します。こちらは、佐賀県が提示した整備新幹線開業後の地域振興策(主に道路整備関連)に賛同したことが、脱退につながったようです。特急停車駅のない太良町にとって、鉄道よりも道路整備のほうが地域振興につながると考えての結論でしょう。
こうして、JR長崎本線存続期成会に残ったのは、鹿島市と江北町長のみになってしまいます。
そんななか、鹿島市でも大きなターニングポイントがありました。2006年4月16日に実施された市長選挙です。新人候補は経営分離容認派で、整備新幹線の着工をかけた選挙ともいわれました。結果は、現職市長の勝利。多くの市民が「経営分離反対」を示した形になります。
鹿島市からみれば、「新幹線の駅ができない」「JRがなくなる」「特急が残るとはいえ大幅に減便される」と、整備新幹線がもたらすメリットよりデメリットのほうが大きいのです。
出典:広報かしま(平成18年1月1日号)
その後も、期成会と佐賀県との話し合いは硬直状態が続きますが、2007年9月28日に「佐賀県との協議再開を求める意見書」を鹿島市議会が全会一致で可決。これにより、協議が再度動き始めます。2007年12月7日、佐賀県、鹿島市、江北町長の三者会談を実施。佐賀県は、経営分離にともなう地域振興策を説明しますが、鹿島市と江北町長はこの提案を受け入れませんでした。
ただ、この直後に「大どんでん返し」が待ち受けていることを、期成会は知るよしもなかったのです。
上下分離は経営分離ではない?
佐賀県と期成会との溝が埋まらないなか、国は整備新幹線の早期着工に向けて、水面下で動き始めます。2007年11月、国の整備新幹線建設促進プロジェクトチームは、整備新幹線の「着工条件の変更」を模索していました。ここで、整備新幹線の着工条件を確認しておきましょう。
1.安定的な財源見通しの確保
出典:国土交通省「新幹線鉄道について」
2.収支採算性
3.投資効果
4.営業主体であるJRの同意
5.並行在来線の経営分離についての沿線自治体の同意
プロジェクトチームは、上記の着工条件のうち「5.並行在来線の経営分離についての沿線自治体の同意」について変更できないかと検討します。つまり、沿線自治体が組織する期成会が不同意でも整備新幹線を着工できないかと、条件の変更を模索したのです。
しかし、国土交通省は「変更できない」と強く反論します。条件を変えると、国と自治体との溝がさらに深まるばかりか、他の整備新幹線計画にも影響が出る可能性があったからです。
条件を変えられなければ、「解釈を変える」ことで整備新幹線を着工できないか。プロジェクトチームは、視点を変えて検討を続けます。そして、導き出されたのが「経営分離しなければ自治体の同意は不要だ」という考えでした。
しかし、経営分離しなければJR九州が大きな負担を抱えることになります。ただ、JR九州は2004年に佐賀県側の線区について上下分離を提案していました。
「長崎県側の並行在来線区間も、全線上下分離にすればよいのではないか」「上下分離は、経営分離に値しない」。
こうして国は、着工条件は変えずに「解釈の変更」をおこない、JR九州や佐賀県、長崎県に伝えたとされます。
佐賀県・長崎県・JR九州が新幹線着工に合意
2007年12月16日、佐賀県、長崎県、JR九州の三者は、肥前山口~諫早間を「JR九州が運行する」ことで合意します。合意内容の詳細は、以下の通りです。
- JR九州は、肥前山口~諫早間の全区間を経営分離せず、上下分離方式により運行し、開業後20年間は維持する。
- JR九州は、線路などの設備修繕をおこない負担に対処するとともに、佐賀県、長崎県に有償で鉄道施設を譲渡する。
※2016年に合意内容の変更があり、開業後の維持期間は「20年間」から「23年間」に、また鉄道施設の譲渡は「無償」になります。
この合意は、期成会には寝耳に水でした。当然、期成会は「上下分離も経営分離だ」と反論します。ただ、佐賀県知事は翌日におこなった記者会見で「JR九州が運行を続けるのだから、経営分離ではない」と強調。上下分離の事例を挙げて、説明しています。
例えば、上下分離の一番の代表例は、最近できている新幹線でありまして、九州新幹線鹿児島ルートも、設備を持っているのは鉄道・運輸機構が持っているわけですね。そして、JR九州はそれを借りて運営しているわけです。でも、これはだからといって経営分離だとかなんとかというのは言いません。
出典:佐賀県「記者会見 平成19年12月17日」
(中略)
とにかくその運行を、JR貨物であれば貨物を、JR九州の場合にはお客様を運ぶのがだれか、そこがポイントなわけですね。
また、国も「経営分離ではないため、沿線自治体の同意は不要」と、2008年1月23日に開催した整備新幹線に関する政府・与党ワーキンググループの会合で確認しています。
JR長崎本線存続期成会は、並行在来線の経営分離反対を目的に設立された組織です。それが、「経営分離ではない」という決着を見せたことで、反論する余地がなくなってしまったのです。
2007年12月18日、鹿島市と江北町長は佐賀県に新幹線着工を容認する意見を伝えています。結果的に、期成会は目的を果たしたことになりますが、「同意なき着工」というこれまでの活動を無にする、後味の悪い幕切れでした。
とはいえ、期成会の活動がなければ第三セクターとして経営分離されていたでしょう。その点では、並行在来線問題に一石を投じる、有意義な組織であったともいえます。
それから3カ月後の2008年3月26日、武雄温泉~諫早間の工事実施計画が認可されます。そして翌2009年、佐賀県のJR長崎本線存続期成会は解散。17年間の活動に、幕を閉じたのです。
※西九州新幹線の在来線活用区間とされた新鳥栖~武雄温泉は、現在も協議が進められています。佐賀県と国土交通省との「幅広い協議」の内容は、以下のページで詳しく解説しています。
※沿線自治体と協議を進めている路線は、ほかにも複数あります。各路線の協議の進捗状況は、以下のページよりご覧いただけます。
参考URL
九州新幹線西九州ルート(長崎ルート)の混迷の要因(鹿児島大学リポジトリ)
https://core.ac.uk/download/pdf/144571213.pdf
そこが知りたい新幹線長崎ルート(1)おさらい<下(佐賀新聞 2018年7月3日)
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/238842
第1章 九州新幹線長崎ルートの政治過程
https://www.asa.hokkyodai.ac.jp/research/staff/kado/nagasaki.pdf
並行在来線問題 長崎、佐賀両県とJR九州 奇策“ウルトラC”で決着 長崎新幹線の軌跡・3(長崎新聞 2022年6月17日)
https://nordot.app/910341523168706560